ここからしか見えない京都
  

天才絵師の人生と筆致に迫る

室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した二人の天才絵師がいた。狩野永徳と長谷川等伯だ。京都の名刹の障壁画を観れば、絵師として火花を散らした熾烈な歴史をかいま見ることができる。

狩野永徳は京都画壇で、すでにたくさんの名作を生みだしていた絵師集団狩野派の4代目当主。狩野派は織田信長や豊臣秀吉につかえ、安土城や大坂城の障壁画などの制作を請け負っていた。大徳寺の塔頭である聚光院の方丈には、24歳の永徳が描いた「花鳥図」が国宝として現在も残されている。また永徳が下絵を描き、千利休が作庭したといわれる「百積の庭」も見もの。

聚光院は狩野永徳の襖絵と千利休の庭のコラボが見もの

狩野派が隆盛を極めているころ、にわかに注目を集めたのが長谷川等伯であった。千利休と交流のあった等伯は、大徳寺三門の増築部分に絵を描く機会を得て、京都画壇で一躍知られることになった。

さらに狩野派の雄であった永徳が亡くなると、秀吉の息子(鶴松)の菩提寺である智積院(もとの祥雲禅寺)の障壁画制作という一大プロジェクトを長谷川派が受注した。同寺には等伯の息子である久蔵が描いた豪華絢爛な「桜図」や、等伯の「秋に松草図」が収蔵されている。

智積院には長谷川等伯・久蔵親子による国宝障壁画が残る

画風こそ違えど、互いに京都画壇でしのぎを削り合うライバルであった永徳と等伯。せめぎあいながらも高めあったであろう絵師二人の人生と、繊細でダイナミックな筆づかいをじっくりと観賞してみてはいかがだろう。

旅行読売
(2021年4月号より転載)