ここからしか見えない京都
  

戦乱の世に散った悲劇の女性、細川ガラシャ

権力争いが絶えない戦乱の世では、時代に翻弄された女性の悲しい姿がしばしば浮き彫りにされる。なかでも悲劇のヒロインとして、いまなお語り継がれているのが明智光秀の娘、玉こと後の細川ガラシャだろう。

玉はわずか15歳(一説には16歳)のときに、織田信長のすすめで勝龍寺城主、細川藤孝の嫡男・忠興のもとへ輿入れした。その様子を再現したのが、長岡京市で毎年11月に実施される「長岡京ガラシャ祭り」だ。約1000人もの大行列が城跡までの3㌔を練り歩き、街の中は祭り一色に包まれる。

勝竜寺城公園は本能寺の変の後、山崎の合戦で光秀が本陣を構えた地

1580年(天正8年)、光秀の加勢によって藤孝が丹後を平定、忠興と玉も丹後へと移り、さらに天橋立近くの宮津城に移った。翌年には忠興が光秀を招き、亭主として茶会を開くなど夫婦にとって充実した日々を過ごしていたようである。

しかし1582年(天正10年)、本能寺の変によって玉の人生は一変する。謀反人の娘という汚名を着せられ、忠興によって丹後の味土(みど)()に幽閉、その後豊臣秀吉の執り成しにより大坂の細川屋敷に戻るも、厳しい監視下にあり外出もままならなかった。そんなときに出合ったのがキリスト教だ。玉はキリスト教を深く信仰するようになり、受洗してガラシャという洗礼名となった。その後、秀吉のバテレン追放令などにより、忠興は棄教するよう説得するが、ガラシャは頑なに拒んだという。

カトリック宮津教会の隣接地に立つガラシャ像。祈りを表現した姿が美しい

関ケ原の戦いが起きると、敵方の石田三成の人質となることを拒み、死を決意しながら自害は許されないキリストの教えを守った。家臣に胸を突かせて介錯させたという。現在、細川屋敷跡の一部にはカトリック玉造教会が建てられ、大聖堂の西北には細川屋敷の井戸「越中井」が残されている。「越中井」石碑の側面に刻まれた、ガラシャ辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(花も人も散りどきを心得てこそ美しい)からは、真に強い女性像が浮かび上がる。

カトリック玉造教会の大聖堂前には細川ガラシャとキリシタン大名の高山右近の像が立つ

【放送時間】
京都浪漫 悠久の物語
「細川ガラシャ 波乱の生涯 ~花も花なれ 人も人なれ~」
2021年12月20日(月) よる8時~8時53分
BS11(イレブン)にて放送

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