ここからしか見えない京都
  

「忠臣蔵」のもう一つの舞台 京都・山科で大石内蔵助の姿を追う

歌舞伎や時代劇でおなじみの「忠臣蔵」。赤穂藩の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介義央を斬りつけた事件が題材で、将軍・徳川綱吉は浅野内匠頭にその日のうちに切腹を言い渡し、播州赤穂の所領は没収。お家断絶となった浅野家の筆頭家老、大石内蔵助良雄は親戚筋をたどり、京都の山科に移り住んだ。山科周辺に大石ゆかりの神社仏閣が点在するゆえんだ。

山科大石神社は、赤穂浪士の義挙を顕彰するために、内蔵助を祭神として1935年(昭和10年)に建立された。討ち入りの日となった12月14日には山科区民挙げての義士祭が行われる。そこから竹林を抜けたところにある岩屋寺は別名大石寺と呼ばれ、内蔵助が討ち入りまで隠棲した地。シダレザクラの名所として知られる。

境内から山科を一望にする岩屋寺

京都の中心地から山科への道すがらにある法住寺は、平安時代中期の公卿・藤原為光が妻と娘の菩提を弔うために989年(永祚元年)に建立した古刹だ。後白河上皇の崇敬も厚く、院の御所の造成などで平安時代は盛大な寺観を極めた。本尊の不動明王像は「身代わりさん」とも呼ばれ、内蔵助はこの寺に詣でて大願成就を祈ったという。

山科に移転前、上京区にあった瑞光院の跡からは遺髪の壺が掘り起こされ、記念碑が民間企業によって建てられた

そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)内蔵助以下47人が吉良邸に討ち入りする。しかし、主君の仇討ちとはいえ許されるものではなく、お家預かりの後、切腹の沙汰が言い渡された。切腹前に僧侶に託した内蔵助らの髷は、山科の瑞光院境内の遺髪塔に静かに眠る。

旅行読売
(2021年2月号より転載)